さくら(独唱)の違和感

高畑充希の『同期のサクラ』やってますねー
まあ内容は知らないんですが主題歌が森山直太朗のさくら(独唱)らしくて
その歌詞に対してずっと抱いてきた違和感の正体について
この機会にちょっと突き詰めてみました

まず出だしからです

 僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を

「きっと」?
待つのは気の持ちようなのでもっと自信持てないか。いきなり気弱
むしろきっとは「また会える」にかかる方が自然では…

で「日々」も気になる
日でいいよなあ
「会える日々」となると職場が同じでいつも会うとかかなり限られた状況です

そして1番引っかかってたのが

 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

挫けそうに、なりかける?
つまり挫けそうになる→挫けるのワンステップまだ残してる訳で
まだ頑張れるだろ!何だよ「気がした」って
とにかく気弱なんです

しかしこれ要するに音数が合わなくて強引に調整した結果じゃないか
そうすると最初の「僕ら」から疑問が生じます

春の別れというと卒業などみんな散り散りになっていくイメージなんですが
これは僕らが君を待ってる、「君」1人だけ遠くに行く構図なんですよ
「日々」と合わせて考えると卒業はまだで君が海外留学などに行く可能性も…

と、そこまで総括して1つの仮説に思い至りました
もともとの言葉は

僕らはきっとまた会える日が来る、それを待ってる
で、それをメロディに乗せるとき歪んだんじゃないか
つまり、

僕ら(僕と君)はきっとまた会える日が来る、それを(僕は)待ってる

が原形と考えると「きっと」のズレも「僕ら」の疑問も説明がつくんです

これは結構いいセンかもと思ったんですが
あらためて歌詞確認すると
2番にまた君と僕らの対比が出てくるため、後付けでなければ
僕らイコール僕と君説は否定されることになります。残念ながらw

どうなんでしょうね
正解知ってる方いたらぜひ教えてくださいー

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